2022.01.09 01:19身体は愛の表現としての器になる最近、赦しの実践で例えば、自我が、Aさんが私に〜したと…Aさんが加害者で私が被害者だ!と言い張っても、結局は、自分のイメージを言ってるに過ぎない…という気づきが起こってきます。私は、被害者になれる私は、誰かから攻撃される私は加害者になれる私は、誰かを攻撃できる結局は、奇跡のコースでいうと、世界が生じる前に、心が神から分離したと信じるがゆえに、自分自身に怒る、責めるという「存在論的罪悪感」を、もう既に妄想し終えた映像を利用し、そこに自分の心の中にある怒りを外側にすり替えて(投影)して意味づけしている。だから、本当は外側に原因はなく、私の心の中の、「神から分離したと信じる信念」を聖霊に訂正していただく。そうでなければ、自我は、外側にずーっと原因を見て本当の幸せがない外側にずーっと幸せを探して自分自身を制限のある世界に閉じ込め続けたいんだな…と感じています。ただ、この自我の心の動きに気づき、赦しによって聖霊に心を明け渡したとき、身体は、神の愛を表現する器になってゆくのだなと実感しています。そして、神の愛の表現というのも、正解などなくて、聖霊に委ねた時に、自動的に為されるだから、私は何も分からないどうぞ、神が私にさせたいことを為さって下さいと、息を吸うように祈ってゆく。その様な祈りを今日も出来るように意志します。奇跡を生きる ~Love&Light ~目覚めを目的として、奇跡のコースやアドヴァイタの実践を通して私から目覚めてゆきます。フォロー2022.01.13 00:00愛を求める兄弟に愛を延長する〜聖霊と共に〜2022.01.07 00:39何も問題ない〜実践を通してのつぶやき〜0コメント1000 / 1000投稿
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