身体は愛の表現としての器になる




最近、赦しの実践で



例えば、自我が、Aさんが私に〜したと…Aさんが加害者で私が被害者だ!と言い張っても、



結局は、自分のイメージを言ってるに過ぎない…という気づきが起こってきます。




私は、被害者になれる



私は、誰かから攻撃される



私は加害者になれる



私は、誰かを攻撃できる





結局は、奇跡のコースでいうと、世界が生じる前に、心が神から分離したと信じるがゆえに、自分自身に怒る、責めるという「存在論的罪悪感」を、



もう既に妄想し終えた映像を利用し、そこに自分の心の中にある怒りを外側にすり替えて(投影)して意味づけしている。





だから、本当は外側に原因はなく、



私の心の中の、「神から分離したと信じる信念」を聖霊に訂正していただく。





そうでなければ、



自我は、外側にずーっと原因を見て



本当の幸せがない外側にずーっと幸せを探して




自分自身を制限のある世界に閉じ込め続けたいんだな…と感じています。





ただ、この自我の心の動きに気づき、赦しによって聖霊に心を明け渡したとき、




身体は、神の愛を表現する器になってゆくのだなと実感しています。





そして、神の愛の表現というのも、正解などなくて、



聖霊に委ねた時に、自動的に為される





だから、私は何も分からない




どうぞ、神が私にさせたいことを為さって下さい




と、息を吸うように祈ってゆく。





その様な祈りを今日も出来るように意志します。



奇跡を生きる ~Love&Light ~

目覚めを目的として、奇跡のコースやアドヴァイタの実践を通して私から目覚めてゆきます。