絶望を越えたところに幸せが在る
昨日は兄弟が個人セッションに来て下さった。
その兄弟が、身内が突然倒れられ、原因も治療法も分からない…
仕事も朝から夜まで働き、毎日の様に病院に通い続けている。
その幻想を通して、
この世界には限界がある。
私は無力である。
だからこそ、「何も分かりません」とサレンダーして頭を下げ、
イエスに「真実のみを思い出せるように助けて下さい」と言える。
形態(幻想)のレベルでは、絶望に見えても、外側に抜け道はない、そこに幸せはないと気付くからこそ、真に祈り、助けを求めることが出来る。
心の私は神から分離したと信じて、常に泣き叫びボロボロなのだ。
それは、本当の私ではないのだけれども、個人の私として格好良く生きる必要はない。
泣きたいときには、思い切り泣き尽くして、それが本当の私ではないからこそ、抑圧せずに出し尽くす。
すると、それを越えたところでは、神の愛の中で幸せでしかありえないのだ。
だからこそ、自我が妄想した幻想を、イエスに神を思い出すためのみに使っていただく。
外側の絶望は幸いなのだと感じる。
イエスは「真の私は、神の愛の延長で在る幸せな神の子なのだから」と常に微笑んで言って下さっている。
その自覚が取り戻されるまで、心のトレーニングは必要だと感じる。
私達はほとんど、自我と同一化して表現し行動してきた。
だからイエスに、
立ち止まり尋ねて、
答えを受け取り、従う
という訓練が必要であり
それが普遍的になれば、イエスが幻想を使って、ここに在るのは、愛と幸せでしかなかった事を教えて下さる。
兄弟とのシェアで改めて、何を目的として生きるのかを意志することが出来た。
そして、自我の声を聞くことを辞めて、イエスの声のみを聴きたい…と祈る。
イエスの完璧な采配に感謝致します。
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