私は神の平安を望みます



奇跡講座ワークブックレッスン185


私は神の平安を望む




1.この言葉をただ口にしたところで何の意味もない。



しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。


もし、あなたが、ほんの一瞬でもそれを本気で言うことができるなら、もはやいつどこにいても、どんな形においても、あなたに哀しみはありえない。



天国は再び完全に自覚され、神についての記憶はあますところなく取り戻され、すべての被造物の復活が十全に認識されるだろう。



…………





『目覚め』を目的として、奇跡のコースの実践を始めて、



奇跡のコースは



目覚めてるか、目覚めてないか


愛か恐れか


0か100かと…




妥協のない教えだと実感しています。





そして、ワークブック185でも書かれているように、どの様な状況が外側で起こっていようと、



本当に神の平安を求めたとき、哀しみはほんの少しも…又は1%も感じることは出来ない。




だから、本当に真実を思い出したい…


それによって、自我と心を同一化することを辞めたい…



と完全に自我を掴むことを降参するための赦しの実践だと実感しています。




それは、心の訓練であり、



毎瞬・毎瞬、心が自我を選択することから、自我を選択したことに気付いて、聖霊に心を明け渡す訓練だと感じています。



ですから、外側は、私の心が「神の平安を感じているか?」という心の選択を映し出す鏡であり、



そうでなければ、内側を見つめ心に戻り、聖霊に心を明け渡します。




時々、個人セッションでシェアして下さる兄弟が、「これいつまで続ければいいのでしょうかね~、終わりが見えないような気がする…」とシェアして下さいますが、



私の心が普遍的に心の平安を実感するまでであり、時間という幻想を掴んでいるから、「いつまで…」という自我の思考は起こってきますが、




聖霊は、



あなたは既に目覚めています



それを受け入れるのは、この瞬間なのです



と教えて下さいます。




分離したと信じている自我が、時間という幻想を使って、終わりが無いように見せようとしますが、



聖霊は、その時間という幻想を使って、「個」のアイデンティティーを固めてきた仮面を剥がすために、必要な場所、人へと常に導いて下さいます。




ですから、赦しの結果とは、肉体の目で見えるものではなく、以前と同じ状況が起こったり、以前と同じような兄弟に会って、ジャッジしなくなったや心が動揺しなくなったなど、



本当に少しずつ少しずつ実感していくことになりますが、




神の平安を望む



という一貫した『目的』と、真実を知っている内なる導き者・イエス、聖霊を『信頼する』こと。



この2つが、私にとっては大切なことなのだと実感しています。



今日も、聖霊と共に1日を過ごせたことに感謝致します。



そして、いつも導いて下さるイエス、聖霊、愛して下さる父(神)に心より感謝いたします♡

奇跡を生きる ~Love&Light ~

目覚めを目的として、奇跡のコースやアドヴァイタの実践を通して私から目覚めてゆきます。