自分と一つである兄弟たちを信頼するとは?




昨日、ケネス・ワプニックさんの動画「兄弟たちを信頼する」を見ました。




私は、自分と一つである兄弟たちを信頼する。



この意味というのは、行動について語っているのではなく、形態について語っているのでもなく、心について語っています。



彼らが「正しい心」を持っているということについて信頼するのです。



と、教えて下さっています。






そして、更に心に響いた内容になります↓↓





3分34秒~




私たちの信頼とは…



私たちの防衛しない態度を通して、また、私たちの愛や親切心を通して、


彼らが「自分にも(正しい心)がある」という信念を強めることが出きると、信頼するのです。



それを私たちは信頼するのです。



誰の心の中にも、同じ「決断の力」があり、【間違った心】ではなく【正しい心】を選択できるということを、信頼するのです。



葛藤や罪悪感や恐れの教師ではなく、赦しの教師を選ぶ選択ができる、と。



ですから、非常によくあることは、人が誤創造する力に制限を設けることが、彼らに、次のように言うこととおなじなのです。



「私は、あなたが自分自身を

傷つけることをやめさせたい。」



「なぜなら、私はあなたを愛してるし、気にかけているから…」と。



「私が怒っているから」ではありません。



「私が怒っているから」ではありません。


「私があなたの行動を裁いているから」でもありません。



あるいは、「その行動ゆえにあなたを裁いているから」でもありません。



そうではなく、「私はあなたを愛しているし、気にかけているからなのです」と。



そして、私がその人を気にかけているということが、「自分にも【正しい心】がある」ということを、その人に思い出させます。



ワークブックにあるように、「おそらく今日、あるいは明日」…



あるいは、5秒後か、5年後かもしれませんが…



いつの日か、あなたは【正しい心】を選ぶでしょう、と。




そのことを、信頼するのです。




このコースが私たちに認識するのを助けるのは…



私たちが何をしても、例えば、世界中で最悪の罪人を見ても、



あるいは、あなた自身の生活の中での罪人を見ても、彼らはみな、邪悪さから生まれでてきたのではない、と認識することです。




なぜなら、誰の中にも「悪と闇と罪が住みついてはいない」からです。



誰でも、自分の中に「光と平安と喜びが宿っている」のです。




傷や苦痛のあらゆる表現の背後には、自分で自分にもたらしたものであれ、他人から自分にもたらされたものであれ、


それは、必死に助けを求める声なのです。


その声は求めています。


「お願いですから、あなたの咎めなき態度や親切さによって…」


「私にも【正しい心】があるということを、手本で示してください」と。



「私の自我を強化しないで…」



「故郷に帰りたいという私の願望を強めて下さい」と。



それが、「私たち一つである、兄弟を信頼しなさい」ということの意味です。



私たちは誰でもみな、恐れに由来し恐れによって維持されている【間違った心】である自我を共有しています。



そしてまた、【正しい心】なよる訂正である親切心を、共有しています。



そして、私たちの誰もが、正しく選択するための同じ力を共有しているのです。




…………




このワプニックさんの動画で、私達の真の救いは、心を聖霊に明け渡し、聖霊と共に表現し行動すること。



実践をしていて思うのは、兄弟や自分自身をジャッジしたり咎めている時は、「私は罪人だ」と自我の「分離維持」の目的を強化し続けているのだと気付きます。




ワプニックさんは、聖霊と共に心が在る時の表現と行動のいくつかの例を教えて下さっていますが、


まだ「目覚めていない私」は、何も分からないのだと降参し「あなたがなさって下さい」と、聖霊に心を完全に委ねることのみだと実感が深くなってきています。




それによって、表現したり行動した後に、聖霊が最善をして下さったと感謝の気持ちが込み上げてきます。




ワプニックさんの動画を通して、常に心に焦点を当て、聖霊に委ねることの大切さを教えていただきました。



ありがとうございます。




奇跡を生きる ~Love&Light ~

目覚めを目的として、奇跡のコースやアドヴァイタの実践を通して私から目覚めてゆきます。