2021.08.07 00:00内側を見つめることで、愛を思い出す〜個人セッションより〜先日、個人セッションで、兄弟が小さい頃からあった得体の知れない不安や恐れが自我であり「無」だったという事が知れて、以前より楽になったとシェアして下さいました。もちろん、まだ真に目覚めていないので、不安や恐れが起こってはきますが、以前はそれが本当の私であり、ネガティブな感情になる私は駄目な人間だと責めていたけど、それは、聖霊と共に見つめると起こっては消えていくものだと気づけたことで心が楽になられたと感じました。私自身も、赦しの実践の過程で、知覚を通して起こってくる思考・感情を見続けていると、その根底にある「存在論的罪悪感」があることに気づきました。そして、それは私は分離した個だ(身体だ)と心が自我と同一化しているとき、常にあるものだと体験から腑に落ちました。それは、分離が起こったと信じるが故の、罪・罪悪感・恐れを常に感じていて泣き叫んでいる状態です。この心の中の存在論的罪悪感を見ないように、世界(外側)に投影して、現象のせいでこうなった兄弟のせいでこうなった など、自分の心の中にあるものを外側に見るという投影を繰り返してきたのだなと実感しました。ただ、この心の中にある「罪悪感」を持っていたくありませんこれを訂正して下さいと聖霊に明け渡すことで、それは通り過ぎ、聖霊がそれは恐れるべきものではなく「無」だったと教えて下さいます。これも、赦しの実践をしたから直ぐに体験できるものではなく、私自身も数年してやっとその様な実感が出来るようになりました。そして、その「罪悪感」を聖霊に捧げることで、常に在る「神の愛」を心の平安を通して感じることが多くなってきています。そして、その反映として、兄弟と真の愛を分かち合えたり、神からのギフトを受け取るというような事も少しずつ多くなってきています。ですから、日々、外側に幸せを求める=分離の信念を維持し続けるという自我の心の動きを見つめることで、聖霊に助けを求め、心を明け渡し、世界を見る見方を変えてゆくという心のトレーニングをしているのだと感じています。そして、この心のトレーニングによって、外側に幸せはなく、内側に『神の愛』という幸せが在ったのと思い出されるのだと、実感が深くなってきています。……………奇跡講座ワークブックレッスン309今日、私は内側を見ることを恐れない内側を見るとは、私の意志を、神が創造したままのものとして、ありのままに見出すことである。私は、真実ではない別の意志を自分が作り出し、それを実在させたと思っているからこそ、内側を見ることを恐れている。しかしそのようなものは何の結果ももたらしてはいない。私の中には神の聖性が存在する。私の中には神についての記憶が存在する。奇跡を生きる ~Love&Light ~目覚めを目的として、奇跡のコースやアドヴァイタの実践を通して私から目覚めてゆきます。フォロー2021.08.11 00:00身体の症状を通して、聖霊のガイダンスに気づく2021.08.04 00:52私のわがままによって相手を傷つけるのではないか?〜実践のシェアより〜0コメント1000 / 1000投稿
0コメント