愛を伝える〜救いに対する恐れ〜



先日、奇跡のコースの実践をしている仲間が、子供には大好きと言えるのに、異性には思ってるのに言えない…とシェアして下さいました。



私は、それを聞いて奇跡のコースの教師・デーヴィッドの事を思い出し、デーヴィッドは誰にでも『Love you』って言ってるよね。



彼は、神の愛の延長として、全てが同じ神の子としての「愛してる」なのだろうね



あなたも、子供には愛を与えるけど、異性には愛を与えたくないという自我の仮面があり、それが心の深いレベルでは、神への恐れ・抵抗として使われてるのだろうね〜



だから、その仮面を外すために、子供に大好きって表現してるのと同じように、異性にも大好きや愛してるって表現する必要があるのかもね



と、伝えたら…



今、ぞぞぞ〜って鳥肌が立って、強烈な恐れが起こってきたと教えてくれました。




ただ、明日異性としっかりと向き合う事になってるから、そのレッスンだと受け取ったので聖霊と共に向き合うとシェアしてくれました。



本当に、赦しの実践を始めて、救いに(神に)対する恐れとして、兄弟に正直に愛を伝えない、兄弟からの愛を素直に受け取ろうとしない…



という事が、私自身も日々の実践の中で、何度も何度も気づくことが出来ました。



ですから、それだけ神の愛を思い出すということは、分離を維持したい自我の死に繋がってゆくことになるので、「私は無条件に愛される事はない」という信念を取って置きたいのだ…という事がしっかりと見えます。



だから、神から分離したがゆえに、私は愛されないという信念を掴んでいますと認めて、



神の子であることを思い出させて下さい



と祈る。




すると、



愛されていない



という思考を掴んでいることがどれだけ傲慢なのか…という事が見えてきて、神の愛に頭を垂れる謙虚な心の状態にシフトしてゆくのだと感じています。




だからこそ、私は愛されない…という悲劇のヒロインの様なストーリーも、実は、夢の作者の自作自演であるという種明かしが為されていくのだな〜と腑に落ちていってます。




………………………………





平安の流れが超えてゆくべき障害はどれもみな同じようにして克服される。



すなわち、それぞれの障害を生じさせていた恐れがその向こうにある愛に屈し、それにより恐れは消えていく。



この障害についても同じことが言える。



平安を取り除き、聖霊を追い払いたいという願望は、自分は聖霊を愛しているという静かな認識を前にすれば、消えていく。



肉体の称揚は、あなたが霊のほうを好むことにより、放棄される。



あなたは霊を、肉体には絶対に抱くことのできない愛で愛しているからである。



奇跡講座テキスト

第19章4.D5より





奇跡を生きる ~Love&Light ~

目覚めを目的として、奇跡のコースやアドヴァイタの実践を通して私から目覚めてゆきます。