聖霊共に、兄弟の癒やしと助けを求める声を認識する〜神の答え〜



先日のシェア会では、


心が自我を選択している時の兄弟への判断と、


心を聖霊に委ねている時の兄弟への判断について、皆さんと分かち合いました。 




自我と兄弟を、見るときは本当に多くの意味付けをして、判断しています。




例えば、相手は、


〇〇によって、


怒っている

悲しんでいる

落ち込んでいる

喜んでいる

楽しんでいる 

幸せを感じている


又は、

〇〇さんは、こういう人だ…など。





でも、聖霊共に判断をするのは2つのみ、



愛の想念


愛(助け)を求める懇請



だから、例えば、相手が自分に対して怒ってる様に見えても、その兄弟は、「私は真実を忘れてしまってるので、どうぞ、私が愛であることを教えて下さい」と助けを求める呼びかけとして判断することができます。



ですから、私達がすることは、心を明け渡し、聖霊に為さっていただく。




それが、兄弟の助けに対して応答するこであり、神の愛の延長になります。




だから、赦しの実践をしていく中で、それを自分自身に教えていく必要性があります。




ですから、シェア会に参加して下さった兄弟も、相手がネガティブな反応のときほど、それを思い出さないといけないのに、


忘れてしまって、自我と共に、分析して自分で答えを出そうとしているので、自分自身に教えていきたいと思います…とシェアして下さいました。




そして、私達は一つの神の子なので、兄弟の助けを求める声に、聖霊共に応答するという事は、自分も同時に救われることなのだと実感しています。




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愛ある想念はどれもみな真実である。 


それ以外のすべては、どのような形をとるにせよ、癒やしと助けを求める懇請である。



助けを求めて哀願する兄弟に向かって誰かが怒りをもって応答するなら、それを正当化できるだろうか。



兄弟に助けを差し出そうとする以外の応答は、適切ではありえない。



なぜなら、彼が求めているのは助けであり、助けのみだからである。



それ以外の何かを差し出すなら、あなたは彼の実相を自分の好きなように解釈することによって、それを攻撃する権利が自分にあると見なしていることになる。


奇跡講座テキスト

第12章3.3〜7



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もし、あなたが助けを求める懇請をありのままに知覚しようとしないとすれば、その理由は、あなたが助けを与えることも受け取ることもしたくないからである。



助けを求める呼びかけを認識しそこなうことは、助けを拒むことである。



それが自分に必要ないと、あなたは言い張るのだろうか。



だが、兄弟の懇請を拒むとき、あなたはそのように言っているのである。



というのも、彼の懇請に答えることによってのみ、あなた自身が助けられるからである。



彼に対し助けを拒むなら、あなたは自分に対する神の答えを認識しない。


奇跡講座テキスト

第12章5.3〜7



奇跡を生きる ~Love&Light ~

目覚めを目的として、奇跡のコースやアドヴァイタの実践を通して私から目覚めてゆきます。