私は愛されていないという悲しみは「無」です



先日は、奇跡のコースの個人セッションでした。



兄弟が、現象で何も悪いことが無いのに、急に「悲しみ」という感情が込み上げてくる…ともシェアして下さいました。



それは、この世界が生じる以前の夢見る者(意識)が、神から分離したと信じた瞬間に、起きてきた喪失感(分離感・罪悪感)という悲しみであり、



その分離の信念をもち続けている限り、私の心の奥深くでは常に、「愛が足りない」と泣き叫んでいる状態です。



私も奇跡のコースを実践して、何度も何度もこの深い悲しみ・喪失感を認識しました。



その『存在論的罪悪感』(自我の泣き叫び)を認識したとき、あまりにも強烈で驚きましたが、


それを認識したからこそ、真実を思い出さない限りは「悲惨」なのだ…という気付きになりました。




だから、真の目覚めの過程では、その『存在論的罪悪感』を見ることになりますが、


聖霊は、それは真実ではなく【無】ですと教えて下さいます。




ですから、認識しては光に捧げ、心を静かにして聖霊に心を明け渡すことで、


その自我の泣き叫びも通りすぎ、心が穏かになります。



そして、ただただ神の平安を心の中で実感しては、有り難くて涙が出ることもあります。




ですから、目覚める過程では、聖霊のガイダンスによって、分離した私への執着が剥がされてゆく…ということが起こってきたり、



無意識下にあった「自我の泣き叫び」を認識して、苦しく感じることもありますが、


聖霊と共に心の平安を感じることも徐々に多くなってゆきます。




そして、聖霊、神への信頼も深くなっているのを実感しています。



兄弟との分かち合いで、分離したと信じる自我の泣き叫びを見つめ、聖霊にすべてを委ね真実のみを見たい…


と、共に意志することが出来ました。




聖霊の完璧なお導きに心より感謝いたします。



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奇跡講座入門編

71ページより

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罪悪感について『講座』(コース)が語るとき、普通の「罪悪感」という言葉とは異なった意味で使われています。



普通、この言葉は、ほとんどいつも、「私は自分がしたことや、しそこなったことについて、悪かったと思う」というニュアンスで使われます。



こうした罪悪感は常に、わたしたちの過去の何か具体的なものに付随しています。



けれども、このように意識的に経験される罪悪感は、氷山の一角にすぎません。



氷山を思い浮かべていただくと、海面下には、巨大な氷の塊が埋もれているわけですが、


この塊が『講座』(コース)のいう罪悪感を表しています。



罪悪感とは、実際、私たちが自分自身について抱いたことのあるすべての否定的な感情と信念と経験の総和です。



ですから、あらゆる形の自己嫌悪や自己拒絶が、罪悪感と見なされます。



つまり、無能力、失敗、空虚感といった感情、または、私たちの中で何かが不足していたり、欠けていたり、不完全で何かもの足りないといった感情などのすべてです。



この罪悪感の大部分は無意識のものです。



ですから、氷山のイメージは非常に役に立ちます。



私たちが自分が本当はどんなにひどい人間だと信じているのかを物語るこうした経験のほとんどは、私たちの顕在意識よりもずっとしたの方に隠されていて、当然のことながら、私たちにとっては、事実上、接近不可能なものとなっています。



そして、このすべての罪悪感の根源は、「私たちは神から自分を切り離すことによって、神に対して罪を犯した」という信念です。



その結果として、私たちは自分のことを、他のすべての人々からも自分の真の自己からも分離した者として見ているのです。





85ページより

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自我は罪悪感を感じることに、強く惹かれています。



そのわけは、自我とは何かを思い出せば、自明のことです。



自我が否認して投影せよとアドバイスするのは、次のような理由があるからです。



すなわち、自我とは一つの信念以上のものではなく、私たちが神から分離したときに生じたかに見えた偽りの自己です。



ですから、私たちが分離が本当に起こったと信じている限りは、自我は安泰です。



けれども、ひとたび私たちが分離は存在していないと信じるなら、自我はひとたまりもありません。



『講座』(コース)が言っている通り、自我は、それが作り出した世界と一緒に、それが生まれたところである無の中に、消滅していきます(M-13.1:2)。


自我は本当に無なのです。


奇跡を生きる ~Love&Light ~

目覚めを目的として、奇跡のコースやアドヴァイタの実践を通して私から目覚めてゆきます。