楽しく目覚めることは出来ないのですか?~聖霊のガイダンス~




先日、奇跡のコースの個人セッションで、兄弟から「楽しく目覚めることは出来ないのか?」と聞かれました。




私自身、スピリチュアルに出逢って、約8年前に「目覚め」を経験したと思っていました。



でもそれは、今思えば、奇跡のコースでいう心が聖霊と共にある状態(正しい心)の状態を意識的に経験したのだと…腑に落とすことが出来ました。




そして、真に目覚めてなければ、心が自我と共にあったり、聖霊と共にあったりと…間違った心と正しい心を行ったり来たりする状態です。




ですから、約8年前に感じた目覚めとは、今思い出すと、内観をしながら楽しくやれると思っていましたし、



その目覚めによって自分(自我)の求める世界を生きることが出来るのだと感じました。





でも、それは、まだ外側に焦点が当たっていて、



○○を持っているから幸せ



○○な状況だから幸せ




と、「私」の幸せを外側の条件で決定し、その根底にある罪悪感(欠乏感)、その条件付きの幸せが無くなることへの恐れは、消えて無かったことに気付かされました。



そして、まだその段階では、自我の分離の信念を信じてるが故の泣き叫び(存在論的罪悪感)を認識することは出来なかった…



潜在意識の奥深くに抑圧し、隠し持っていたことに気付かされました。





そして、今真の目覚めへと向かう過程で、自我の視点から見ると、ワクワク楽しくは出来ない…ということも実感しています。




しかも、聖霊は、自我の私からすると「嫌だ!」と感じたり、驚くようなガイダンスを下さることもあります。




しかし、その自我にとっての「嫌だ!」と思うことに降参し、聖霊に従うことで、条件のないただただ満たされている様な喜びを実感しています。




本当に、この条件のない喜びとは、本当は言葉にも出来ないのですが…



ただ、聖霊と共にさせていただいている…という神への感謝の様なものだとも感じています。




そして、その自我にとって「嫌だ!」と思っていたことを行動に移すことで、自我の分離感を強化するためのマスクが剥がされる事になるので、



真の目覚めの目的への視点で見ると、最善であり良き事なのだと実感しています。




そして、更に目覚めていない私は、何が私にとっての最善なのか「本当に何も分からないのだ」と降参すると同時に、聖霊への信頼が深くなってきています。




そして、


自我が楽しいと思っていたこと


自我が幸せだと思っていたことの変わりに、




神の愛の自覚=心の平安を取り戻させて下さいます。




そして、真の幸せと外側の世界は全く関係がないことを教えて下さいます。




または、神と完全に一つになることで、神の愛を通して世界を見ることが出来るのだと完璧に導いて下さいます。




いつも、ありがとうございます。

奇跡を生きる ~Love&Light ~

目覚めを目的として、奇跡のコースやアドヴァイタの実践を通して私から目覚めてゆきます。