悟りの体験とは予想していたものと違いました②





後に私は信じられないほどの恩寵を受け取りました。



それはあまり頻繁には訪れることのない、もっとも美しく神秘的なさなかの出来事でした。



ときおり迷惑な小さな声が聞こえてきて、「続けて。これではないよ!」と言うのです。




私の残りの部分は




「これだよ。僕の肉体もマインドもすべてがこれだと言っているんだから、これでいいんだよ。


この途方もない歓喜の広がり、これこそが悟りに違いない」



と考えていました。





すると小さな声がふたたびやってきて「ここで立ち止まらないで。ここではないよ」と言うのです。




もしも、私に選択権があったとしたら、きっとその小さな声をつまんで窓から放り投げたでしょう。




なぜなら私は、他の人もそうしたすばらしい体験をしていることに気づいていましたし、少なくとも数日や数週間、そしてそのときには数ヵ月もそれらの体験を楽しみ、それらの訪れを確信する必要が彼らにあることを知っていたからです。



ところが私はというと、そうした体験のどれ一つとして10分以上享受することは稀でした。



だからといってそれらの体験がすぐ終わるわけではありません。



しかし、どんな体験のときも疑いという影がさしてそれが悟りではないことを知ったのです。




折に触れて何度もその声が、自分が落ち着きたかったであろう場所から外へと私を押し出してくれたのです。



私にとってはそれこそがすばらしい恩寵でした。




空 禅を生きる
アジャシャンティ著
P249より


…………





この内容を読み、心の奥に響きました。



私自身も、心の浄化と共に、その過程の中でハートが爆発して愛が雪崩込むという体験や啓示の様な体験をしました。



そして、それが目覚めだと信じていたことがありました。




でも、それは真理の永遠とは違い、やはり瞬間的に起こっては消えていくものでした。



そして、後にスピリチュアルで陥りやすいエゴの罠でもあるなと実感しました。




その体験は、とても気持ちが良く心地良かったり、私はこんな体験をした…という特別性や優越感を持つことも出来ます。




そして、自我は、その体験に特別性や優越感を持っていることすら感じさせないようにして、「分離感」を維持させようとします。




私自身もその体験の時は、とても心地良かったですし、もう大丈夫だ…と思っていたのですが、



聖霊が奇跡のコースを通して、「それが最後ではないよ。それさえも幻想なのだよ」と教えて下さり、真の悟り・目覚めへと指し示して下さっています。



そして、アジャシャンティの本へと導いて下さり、真理の道を、指し示して下さいます。




本当に自我の誘惑・罠を暴いて下さることに感謝でしかありません。




ありがとうございます。

奇跡を生きる ~Love&Light ~

目覚めを目的として、奇跡のコースやアドヴァイタの実践を通して私から目覚めてゆきます。